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ま心のコラム

誰かのために道を譲る

2016年4月7日

1964(昭和39)年に村上雅則氏が日本人初のメジャーリーガーとなったとき、マスコミの扱いは今よりずっと小さなものでした。
村上氏は南海ホークスからマイナーリーグ・フレズノへの野球留学で大活躍し、サンフランシスコ・ジャイアンツの党首に大抜擢されました。ニューヨーク・メッツとのデビュー戦で勝利、年間防御率1・80という好成績を収めました。
しかし当時の世相は東京オリンピック一色。あまり報道されないばかりか、日本の球団との話し合いが不調になると「わがまま」のレッテルさえ貼られてしまいました。

の後の日本人メジャーリーガーの登場は、1995(平成7)年の野茂英雄氏まで待たなければなりませんでした。
ロサンゼルス・ドジャースに所属した野茂氏はトルネード投法をひっさげて二度のノーヒットノーランを記録するなど、空前の活躍ぶりを見せました。NOMOマニアが出現し「NOMOが投げれば大丈夫」という歌までヒットしました。
しかし野茂氏は近鉄バッファローズ時代、球団への不満を「年棒つり上げのための駆け引き」と受け止められれ、バッシングを受けたことがあります。それもメジャー入りを決意した理由の一つだったということです。

茂氏の活躍がイチロー選手、松井秀喜選手、松坂大輔選手、ダルビッシュ有選手を初めとする日本人メジャーリーガー誕生の道を開拓したことは間違いありません。苦難に立ち向かい、実力で戦いとった道だからこそ、多くの人がその道を追うのです。
そうした苦難を経なければ、本当に新しい何かを手に入れることはできないのです。

の逆に、多くの人から諸手を挙げて歓迎されたものが、あとになってとんでもない失敗だったということもよくあります。
現在使用が禁止されているフロンガスやアスベストは当初「夢の素材」としてもてはやされました。また国民からの絶対的な支持を受けた指導者が、腐敗や独裁で国民を苦しめた例も数多くあります。「安価でクリーン」なはずだった原発も、一つ誤れば取り返しのつかない損失をもたらすことを露呈しました。

たちは日々の暮らしの中で、大変なこと、面倒なことからつい逃げてしまいがちです。
しかし苦難とはあとから来る誰かのために道を開くことでもあり、安逸に流されることは、せっかくの道を閉ざすこともあるのです。
ちょっとした親切で誰かの役に立ってみる。そんな気持ちで誰もが人のために道を譲りあえたら、とても気持ちのいいことではないでしょうか。

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