ま心のコラム

心の未来

2013年6月3日

「天目茶碗」という黒くてつやのある陶器を、どこかで目にしたことがあるかと思います。鉄釉(ゆう)を使った深みのある焼き色は、陶器の最上級品と謳われています。

目茶碗は八百年ほど前、中国の南宋時代(日本で言えば鎌倉時代)に作られましたが、その後の覇権争いに巻き込まれて製法が失われ、幻の陶器となってしまいました。その中でも日本にだけわずか数点が伝わる「曜変(ようへん)天目茶碗」は陶器の至宝とされ、国宝にも指定されています。
青く輝く星のような模様が浮き出ている陶器そのものの見事な美しさに加えて、製法が失われているという神秘性が曜変天目茶碗にいわく言いがたい魅力を与えています。

「一度失われたもの」は、後世に生きる私たちを惹きつけてやみません。ペルー・ナスカの地上絵や、チリ・イースター島のモアイ、奈良県明日香村の石舞台古墳など、どのようにして作られたのかも、何のために作られたのかもわからなくなってしまったものの神秘性に、誰もが想像力をかき立てられることでしょう。

こにはかつて存在した「心」が生きています。そこにある心は私たちに何も語りかけてはくれません。ただひとつわかることは、その心が一度失われてしまったものとともに、時空を超えていつまでもそこに存在し続けるということだけです。

の人類の繁栄も、かつてさまざまな生物が繰り返してきたのと同じように、いつかは終わりの時を迎えるのかもしれません。
もし、今から気の遠くなるほどの未来に、私たちが築いたこの現代の文明社会が遺跡として再発見されたとしたら、未来の人々はそこに一体どのような心を読み取るでしょうか。私たちが古代遺跡を見るのと同じ、悠久のロマンを感じるのでしょうか。はたまた利己的な経済的繁栄にだけ明け暮れて、心を忘れたあさましい文明の亡骸と思われてしまうのでしょうか。

のどちらと思われるのか、分岐点は今まさにやってきています。私たちは今「本当の心がここにある」と未来永劫胸を張れる、真に豊かな社会への道の第一歩をようやく歩き始めたところなのです。

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